院長日記①

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先生との思い出

先生は覚えていないかもしれないけど、僕はよく覚えている。先生は忘れっぽいから、覚えてるかな。
今回、通算900勝を達成された記念に、先生との思い出を綴っておこうかな、と。


裕光先生と僕の出会いといえば、一番最初は僕がまだ若草牧場で働いていたとき。

その頃、若草牧場には栗田裕光厩舎の馬が何頭かいた。加藤院長の紹介で来ているらしかった。

僕も栗田裕光厩舎の馬にはよく乗っていたので、結構よく覚えている。いい馬も多かったし血統のいい馬もいたので、立派な厩舎なんだろうな、と思っていた。その時の先生の印象といえば、『でかいな』ってことと、『なぜこの方はいつも運転手付きで来るんだろ?』って感じだった。

後で聞いたら、単に免許を持っていないからってだけの話だったんだけど。未だに運転免許証は持っていないそう。

その時は、まさか自分が大井競馬場で獣医師になるなんて、思いもしなかったし。


そして僕が大井競馬場で働き始めてから、裕光先生と接点が生まれたのはちょうど10年ぐらい前。

たまたまその日宿直だった僕は、栗田裕光厩舎のとある急患馬をちょっと大掛かりな治療をしたのだが、大失敗してしまった。

僕もかなり反省していてこりゃクレームものだよなと思っていたのだが、裕光先生のところに話をしに行ったら、

『お前はまだ若い。今回のことは確かに失敗かもしれないが、いい勉強になったと思って立派な獣医さんになれよ。』

と言ってくれた。なんて心の広い、いい人なんだ。正直、ものすごく救われたのを今でもよく覚えている。

僕の失敗が原因(かはわからないが)なのか、その子は別の厩舎へと転厩してしまった。そして、その子のオーナーも厩舎から離れてしまった。僕は申し訳ない気持ちだけが残り、何とかならないものかともどかしかった。

『そういえば、今度ゆっくり話をしよう。連絡先教えといてくれよ。』

と言われて、裕光先生と連絡先を交換した。
今回こそはお説教なんだろな、とか思ったりもした。

ほどなくして、裕光先生から連絡が来た。僕は電話に出られなかったので折り返そうと思っていたのだが、留守電に先生からの伝言があった。

『栗田です。渋谷獣医師に、1頭担当してもらいたいと思っています。連絡下さい。よろしく。』

とあった。びっくりして、あわてて先生のところへ行った。

その時、栗田裕光厩舎は加藤院長が全頭を担当していて、二人三脚といってもいいほど強固な結び付きであった。

僕は、他人様のお客さんを取ったりするのも性に合わないし、ましてお世話になっている加藤院長のお客さんだから、ちょっと困ったなと思っていた。

『加藤院長はもう年で、あと何年続けられるかもわからない。身体も動かないみたいだから、怪我されても困るしさ。』

加藤院長は、この時すでに80歳を超えていた。結局、その3年ぐらい後に現役のまま亡くなってしまったのだが。加藤院長のお葬式に、栗田裕光厩舎のスタッフみんなと一緒に行ったのも、今となってはいい思い出。

『そこで、これから新しく入って来る馬を渋谷に任せて行こうかと思っているんだ。』

『困ります。だって、加藤院長が何て言うかわかりませんよ。』

『ダメか?加藤院長にはオレの方から話を付けておくからさ。よく考えて返事くれよ。』
『オレもさ、またリーディングとか、重賞とか獲りたいって気持ちはまだまだ捨ててないからさ。渋谷、どうかオレに力を貸してくれないか?』

この時、裕光先生が僕に言ってくれたことは、今でも鮮明に覚えている。先生の厩舎のお役にも立ちたいし、何らかの形で恩返しもしなければと思っていた僕は、次の日に先生に了承の返事をした。

『本当に、僕でいいんですか?』

その時、依頼された馬がキングガンホーという子だった。紆余曲折はあったけれど、彼は早々に勝ってくれたし、最終的には9歳まで走って最高でB2まで上がってくれた。

それから徐々に僕の担当馬が増えて行って、気が付くと栗田裕光厩舎の馬は全部僕の担当になっていた。

印象に残っている子、走ってくれた子、もっと走ってよかったのに走らせられなかった子、それぞれみんなよく覚えている。

キングガンホー、プレミアムトーク、オグリタイム、ヤマニントルーパー、サクラレグナム、トガミサクラ、ダンスダンスダンス、ウマノジョー、タネノコア、マクトゥーブ、ビッグマロン、コンドルダンス、センペンバンカ、ピンフドラサン…数え切れないぐらいいるし、もちろんギシギシも。

栗田裕光厩舎は、追い切り後に必ず全頭歩様検査をしていた。先生と歩様検査を見ながら、あぁだこうだと話し合うのが、いつの間にか日課になっていた。

先生の馬を走らせるための情熱や、どんな人にでも意見を求める懐の深さは、先生ならではであり、僕も忘れてはならないと思った。

そして2020年の年末、準重賞ジェムストーン賞。ギシギシが勝ってくれた。
先生は、勝ったら一緒に写真を撮ろう、と言ってくれていた。
ウィナーズサークルで写真を撮りながら、あの時先生が言っていたこと、半分くらいは実現できたかな、と思ってうれしかった。

その後ギシギシは休養を挟み、4勝してA級まで上がった。その時、疲労がじわじわと来始めていると感じた僕は、先生に休養を提案した。

先生の返答は、こうだった。
『渋谷の言っていることはよくわかる。オレもそろそろお休みかと思っていた。しかしな、勝負事には勝負所というのがある。ここはオレの勝負勘が、次は交流重賞だと言っている。だから東京スプリントに行きたい。とにかくケアをしっかり頼む。』

そしてギシギシは次開催の東京スプリントに選出され、中央馬たちと互角に戦い、タイム差なしの3着とがんばった。

先生の勝負勘が、見事にハマった。あそこで休養に入っていたら、交流重賞3着も、習志野きらっとスプリント勝ちも、なかったかもしれない。

あの日のレース後、大健闘だとか、よくがんばったとみんなで言っていたら、先生に一喝されたのもよく覚えている。

『お前ら、勝つつもりでやってたんじゃないのか。負けて悔しくないのか!』

と。でも、先生の顔は半分笑っていたけど。

そしてギシギシは、習志野きらっとスプリントで重賞勝ちを成し遂げた。先生はそのレース後、こう言った。
『オレは辞めるまでに大井の1200mの重賞を獲りたい。本当の目標はそこだから。またよろしく。』と。

それは恐らく、ジーエスライカーが志半ばでなし得なかった、そういう思いもあるのかなと察する。

まだまだ、先生と三浦さんと僕らの夢は、続いてゆく。
あと5年。うまく行けば、1000勝だって夢じゃない。


先生が引退するときに、僕は一つだけ聞いてみたいことがある。(『学校へ行こう』みたいだな(笑))

『先生、僕は本当に栗田裕光厩舎のお力になれましたか?』

そう聞いたら、先生はどう答えるかな?

いつもこちらの想像を超えるような返答をしてくれる先生なので、何て答えてくださるかを想像するだけで楽しくて、幸せな気分になる。そんな先生なんです。



 2023.2
2020ジェムストーン賞
2022千葉日報賞スプリント
習志野きらっとスプリント優勝
栗田裕光先生、通算900勝達成
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